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益州。『禹貢』によると、舜は十二の牧を置くにあたり、益州に相当する領域は梁州の領域とした。周ではその梁州を雍州に合併させたので雍州の領域となった。『春秋元命包』によると「參伐[3]が流れ落ちて益州となり、「益」を「阨」[4]と言うようになった。」とある。その土地は険しく狭く阨(ふさ)がっているという意味であり、また益州の土壌の利益は大きいという。それゆえこのように名がついた。
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はじめ、秦の恵王が蜀を滅ぼして郡を置き、張若を蜀郡の太守とした。始皇帝の代になって三十六郡を置いたが、蜀郡の名は改めなかった。漢代の初期には漢中、巴、蜀があったが、高祖六年(紀元前201年)、蜀郡を分けて広漢郡を置き、全部で四郡となった。武帝は西南夷をきり開き、さらに犍為郡、柯郡、越郡、益州郡の四郡を置いて全部で八郡となり、遂に益州を置いて統治することとなった。益州はこのように始まった。
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後漢の時代になると、明帝は永昌郡を図版に組み入れて置いた。安帝はまた蜀郡、広漢郡、犍為郡の三郡に諸道を置き、それぞれ属国都尉を置いた。霊帝の時代になるとまた汶江県、蠶陵県、広柔県の三県を汶山郡として立てた。
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献帝の初平元年、劉璋が巴郡を分けて永寧郡を立てた[四二]。建安六年(201年)、永寧郡を改めて巴東郡とし、巴郡を巴西郡とし、また涪陵郡を立てた。二十一年(216年)、劉備が巴郡を分けて固陵郡を立てた。
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蜀の章武元年(221年)、また固陵郡を改めて巴東郡とし、巴西郡を巴郡とした。また広漢郡を分けて梓潼郡を立て、犍為郡を分けて江陽郡を立て、蜀郡属国を漢嘉郡とし、犍為郡属国を朱提郡とした。劉禅の建興二年(224年)、益州郡を改めて建寧郡とし、広漢郡属国を陰平郡とした。建寧郡と永昌郡を分けてを雲南郡を立て、建寧郡と柯郡を分けて興古郡を立て、広漢郡を分けて東広漢郡を立てた。
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魏の景元年間(260~264年)に、蜀を平定し、東広漢郡を省いた。晋の武帝の泰始二年(266年)になって、益州を分けて梁州を置いた。漢中郡を梁州に所属させた。七年(271年)、また益州を分けて寧州を置いた。益州は郡八、四十四県、十四万九千三百戸を統治した。
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蜀郡 秦が置いた。六県、五万戸を統治した。
成都 広都 繁 江原 臨邛 郫
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犍爲郡 漢が置いた。五県、一万戸を統治した。
武陽 南安 僰道 資中 牛鞞
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汶山郡 漢が置いた。八県、一万六千戸を統治した。
汶山 升遷 都安 広陽 興楽 平康 蠶陵 広柔
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漢嘉郡 蜀が置いた。四県、一万三千戸を統治した。
漢嘉 徙陽 嚴道 旄牛
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江陽郡 蜀が置いた。三県、三千一百戸を統治した。
江陽 符 漢安
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朱提郡 蜀が置いた。五県、二千六百戸を統治した。
朱提 南広 漢陽 南秦 堂狼
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越巂郡 漢が置いた。五県、五万三千四百戸を統治した。
會無 邛都 卑水 定苲 臺登
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牂柯郡 漢が置いた。八県、一千二百戸を統治した。
萬壽 且蘭 談指[四三] 夜郎 毋歛[四四] 并渠 鄨 平夷
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西晋の恵帝の後、李特は蜀にて僭称し国号を漢と称した。益州の郡県はすべて李特の手に落ちた。李雄はまた漢嘉郡と蜀郡の二郡を分けて沈黎郡と漢原郡の二郡を立てた。この時、益州の郡県は李氏の手に落ちていたが、東晋は名目上益州に郡県を置いた。
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東晋の桓温が蜀を滅ぼすと、その地はまた晋の領土となり、漢原郡と沈黎郡を省いて南陰平郡、晋原郡、寧蜀郡、始寧郡の四郡を立てた。咸安二年(372年)、益州は苻氏の手に落ちた。太元八年(383年)、また晋の領土となった。隆安二年(398年)、晋熙郡、遂寧郡、晋寧郡の三郡を立てた。
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[四二] 初平元年劉璋分巴郡立永寧郡
異なる部分を考察すると、劉焉が興平元年(194年)に死んでから、子の劉璋が益州牧となった、則ち初平元年(190年)において劉璋が益州牧となるにはまだ早く、「初平」はまさに「興平」とすべきところの誤りである。
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[四三] 談指
原作では「指談」とある。『斠注』、『漢書地理志』、『華陽国志』の四はすべて「談指」とある。思うに、『漢書』昭帝紀、『前漢紀』の十六でも「談指」とあるので、ここで後者によって正す。
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[四四] 毋歛
原作では「毋劍」とある。『斠注』、『漢書地理志』、『宋書州郡志』、『華陽国志』の四、『水經溫水注』ではすべて「毋歛」とある。思うに「劍」はすなわち誤字であるので、ここで改めた。
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訳者注[3]
「參伐」とはオリオン座のこと。古代中国では天体と土地を重ね合わせて考える習慣があり、參伐は益州の地に相当すると言われている。
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訳者注[4]
「阨」という字は、山が両側からせまってふさがるという意味で、狭い道や険しい道を表す。
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< 原文 > 『晋書』中華書局 1974年11月刊行 ISBN 7101003087 |
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益州。案禹貢及舜十二牧俱爲梁州之域,周合梁於雍,則又爲雍州之地。春秋元命包云:「參伐流爲益州,益之爲言阨也。」言其所在之地險阨也,亦曰疆壤益大,故以名焉。始秦惠王滅蜀,置郡,以張若爲蜀守。及始皇置三十六郡,蜀郡之名不改。漢初有漢中、巴、蜀。高祖六年,分蜀置廣漢,凡爲四郡。武帝開西南夷,更置犍爲、牂柯、越巂、益州四郡,凡八郡,遂置益州統焉,益州蓋始此也。及後漢,明帝以新附置永昌郡,安帝又以諸道置蜀、廣漢、犍爲三郡屬國都尉,及靈帝又以汶江、蠶陵、廣柔三縣立汶山郡。
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獻帝初平元年,劉璋分巴郡立永寧郡[四二]。建安六年,改永寧爲巴東,以巴郡爲巴西,又立涪陵郡。二十一年,劉備分巴郡立固陵郡。蜀章武元年,又改固陵爲巴東郡,巴西郡爲巴郡,又分廣漢立梓潼郡,分犍爲立江陽郡,以蜀郡屬國爲漢嘉郡,以犍爲屬國爲朱提郡。劉禪建興二年,改益州郡爲建寧郡,廣漢屬國爲陰平郡,分建寧永昌立雲南郡,分建寧牂柯立興古郡,分廣漢立東廣漢郡。魏景元中,蜀平,省東廣漢郡。及武帝泰始二年,分益州置梁州,以漢中屬焉。七年,又分益州置寧州。益州統郡八,縣四十四,戶十四萬九千三百。
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蜀郡 秦置。統縣六,戶五萬。
成都 廣都 繁 江原 臨邛 郫
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犍爲郡 漢置。統縣五,戶一萬。
武陽 南安 僰道 資中 牛鞞
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汶山郡 漢置。統縣八,戶一萬六千。
汶山 升遷 都安 廣陽 興樂 平康 蠶陵 廣柔
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漢嘉郡 蜀置。統縣四,戶一萬三千。
漢嘉 徙陽 嚴道 旄牛
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江陽郡 蜀置。統縣三,戶三千一百。
江陽 符 漢安
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朱提郡 蜀置。統縣五,戶二千六百。
朱提 南廣 漢陽 南秦 堂狼
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越巂郡 漢置。統縣五,戶五萬三千四百。
會無 邛都 卑水 定苲 臺登
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牂柯郡 漢置。統縣八,戶一千二百。
萬壽 且蘭 談指[四三] 夜郎 毋歛[四四] 并渠 鄨 平夷
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惠帝之後,李特僭號於蜀,稱漢,益州郡縣皆沒于特。李雄又分漢嘉、蜀二郡立沈黎、漢原二郡。是時益州郡縣雖沒李氏,江左並遙置之。桓溫滅蜀,其地復爲晉有,省漢原、沈黎而立南陰平、晉原、寧蜀、始寧四郡焉。咸安二年,益州復沒於苻氏。太元八年,復爲晉有。隆安二年,又立晉熙、遂寧、晉寧三郡云。
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[四二] 初平元年劉璋分巴郡立永寧郡
考異:劉焉以興平元年卒,子璋始爲益州牧,則初平元年璋尚未牧益州,「初平」當爲「興平」之譌。
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[四三] 談指
原作「指談」。斠注:兩漢志、華陽國志四並作「談指」。按:漢書昭帝紀、前漢紀十六亦作「談指」。今據乙正。
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[四四] 毋歛
原作「毋劍」。斠注:兩漢志、宋志、華陽國志四、水經溫水注皆作「毋歛」。按:「劍」乃誤字,今改。
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