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梁州。『禹貢』によると華陽・黒水の地は、舜が十二の牧を置いたときのひとつであった。梁とは、「西方は金剛の気が強梁だ」という意味であり、これが名前の由来である。『周禮』の職方氏によると、梁州を雍州に併合したという。漢では梁という州名を立てず、その地を益州とした。
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献帝の初平六年(195年)になって[三八]、臨江県を永寧郡に所属させた。建安六年(201年)、劉璋は永寧郡を改めて巴東郡とし、巴郡の墊江県を分けて巴西郡を置いた。劉備は蜀を占拠すると、広漢郡の葭萌県、涪城県、梓潼県、白水県の四県を分け、葭萌県を漢寿県と改め、漢徳県を立てて梓潼郡とした。また、巴郡の宕渠県、宣漢県、漢昌県の三県を割いて宕渠郡を置いたが、ほどなくして宕渠郡を省き、巴西郡に所属させた。
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泰始三年(267年)、益州を分けて漢中に梁州を立てた[1]。漢寿県を改めて晋寿県とし、また広漢郡を分けて新都郡を置いた。梁州は八郡、四十四県[三九]、七萬六千三百戸を統治した。
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漢中郡 秦が置いた。八県、一万五千戸を統治した。
南鄭 蒲池 褒中 沔陽 成固 西鄉 黃金 興道
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梓潼郡 蜀が置いた。八県、一万二百戸を統治した。
梓潼 涪城 武連 黃安 漢德 晋壽 劍閣 白水
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広漢郡 漢が置いた。三県、五千一百戸を統治した。
広漢 德陽 五城
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新都郡 泰始二年(266年)に置いた。四県、二万四千五百戸を統治した。
雒 什方 緜竹 新都
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涪陵郡 蜀が置いた。五県、四千二百戸を統治した。
漢復 涪陵 漢平 漢葭 萬寧
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巴郡 秦が置いた。四県、三千三百戸を統治した。
江州 墊江 臨江 枳
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巴西郡 蜀が置いた[四〇]。九県、一万二千戸を統治した。
閬中 西充国 蒼溪 岐愜 南充国 漢昌 宕渠 安漢 平州
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巴東郡 漢が置いた。三県、六千五百戸を統治した。
魚復[四一] 朐 南浦
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太康六年(285年)九月、新都郡を廃して広漢郡に組み入れた。西晋の恵帝はまたもや巴西郡を分けて宕渠郡を置き、宕渠郡は宕渠県、漢昌県、宣漢県の三県を統治した。宕渠郡、新城郡、魏興郡、上庸郡の四郡を合わせて梁州とした。少しして梁州の郡県は李特の手に落ち、永嘉年間(307~313年)に、梁州の郡県が分けられ、楊茂捜の領地に属した。晋の人々は流れて梁州と益州の人々に身をよせ、そして梁州、益州の二州は南北二つの陰平郡を立てた。
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桓温が蜀を平定した後、巴漢から人々が流れたところに晋昌郡を立て、長楽県、安晋県、延寿県、安楽県、宣漢県、寧都県、新興県、吉陽県、東関県、永安県の十県を領有した。また益昌県、晋興県の二県を置き、巴西郡に所属させた。徳陽郡の東南の境界地域に遂寧郡を置いた。また晋寿郡に剣閣県を置いた。晋昌郡、巴西郡、徳陽郡、遂寧郡、晋寿郡を梁州に所属させた。
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後に東晋の孝武帝は梓潼郡の北の境界地域を分けて晋寿郡を立て、晋寿県、白水県、邵歡県、興安県の四県を統治した。梓潼郡では剣閣県から梓潼県へ強制的に移民が行われた。また別に南漢中郡を置き、巴西郡と梓潼郡を分けて、金山郡とした。東晋の安帝の時になって、また新巴郡、汶陽郡の二郡を立て、北新巴郡、華陽郡、南陰平郡、北陰平郡の四郡を領有し、その後また、巴渠郡、懷安郡、宋熙郡、白水郡、上洛郡、北上洛郡、南宕渠郡、懷漢郡、新興郡、安康郡の十郡を立てた。
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[三八] 及獻帝初平六年
趙一清の『水經注釋』の三三によると、全祖望は「初平は四年までで、六年は無く、元年として見る[2]」と言っている。
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[三九] 縣四十四
各本では「縣三十三」とあるが、実際に計算した結果、ここでは殿本に従って「縣四十四」とする。
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[四〇] 蜀置
畢沅の『晉書地理志』新補正によると、譙周の『巴記』では「建安六年に劉璋は巴郡と墊江郡を分けて巴西郡とした」とある。これにより、巴西郡は劉璋時代に分けて置かれたこととなる。
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[四一] 魚復
各本では「魚腹」とあるが、ここでは宋本に従い「魚復」とする。『漢書地理志』上、『後漢書郡国志』の五、『華陽國志』の一、『後漢書』張堪伝、『蜀志』先主伝はみな「魚復」としている。
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訳者注[1]
ここでは、泰始三年に梁州を置いたとしているが、その直後に新都郡を置いたという記述があり、その新都郡の条には、泰始二年に置いたとある。記述の順序が逆になっている。また、益州志では、泰始二年に梁州を置いたとある。泰始三年は誤りで、泰始二年が正しいであろう。
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訳者注[2]
複写の際に「元」が「六」と誤記されたと考えられる。初平元年とするならば、臨江県を永寧郡に所属させたのは西暦190年ということになる。
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< 原文 > 『晋書』中華書局 1974年11月刊行 ISBN 7101003087 |
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梁州。案禹貢華陽黑水之地,舜置十二牧,則其一也。梁者,言西方金剛之氣強梁,故因名焉。周禮職方氏以梁并雍。漢不立州名,以其地爲益州。及獻帝初平六年[三八],以臨江縣屬永寧郡。建安六年,劉璋改永寧爲巴東郡,分巴郡墊江置巴西郡。劉備據蜀,又分廣漢之葭萌、涪城、梓潼、白水四縣,改葭萌曰漢壽,又立漢德縣,以爲梓潼郡;割巴郡之宕渠、宣漢、漢昌三縣置宕渠郡,尋省,以縣並屬巴西郡。泰始三年,分益州,立梁州於漢中,改漢壽爲晉壽,又分廣漢置新都郡。梁州統郡八,縣四十四[三九],戶七萬六千三百。
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漢中郡 秦置。統縣八,戶一萬五千。
南鄭 蒲池 褒中 沔陽 成固 西鄉 黃金 興道
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梓潼郡 蜀置。統縣八,戶一萬二百。
梓潼 涪城 武連 黃安 漢德 晉壽 劍閣 白水
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廣漢郡 漢置。統縣三,戶五千一百。
廣漢 德陽 五城
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新都郡 泰始二年置。統縣四,戶二萬四千五百。
雒 什方 緜竹 新都
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涪陵郡 蜀置。統縣五,戶四千二百。
漢復 涪陵 漢平 漢葭 萬寧
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巴郡 秦置。統縣四,戶三千三百。
江州 墊江 臨江 枳
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巴西郡 蜀置[四〇]。統縣九,戶一萬二千。
閬中 西充國 蒼溪 岐愜 南充國 漢昌 宕渠 安漢 平州
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巴東郡 漢置。統縣三,戶六千五百。
魚復[四一] 朐 南浦
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太康六年九月,罷新都郡并廣漢郡。惠帝復分巴西置宕渠郡,統宕渠、漢昌、宣漢三縣,并以新城、魏興、上庸合四郡以屬梁州。尋而梁州郡縣沒于李特,永嘉中又分屬楊茂搜,其晉人流寓於梁益者,仍於二州立南北二陰平郡。及桓溫平蜀之後,以巴漢流人立晉昌郡,領長樂、安晉、延壽、安樂、宣漢、寧都、新興、吉陽、東關、永安十縣;又置益昌、晉興二縣,屬巴西郡;於德陽界東南置遂寧郡;又於晉壽置劍閣縣,屬梁州。後孝武分梓潼北界立晉壽郡,統晉壽、白水、邵歡、興安四縣;梓潼郡徙居梓潼,罷劍閣縣;又別置南漢中郡,分巴西、梓潼爲金山郡。及安帝時,又立新巴、汶陽二郡,又有北新巴、華陽、南陰平、北陰平四郡,其後又立巴渠、懷安、宋熙、白水、上洛、北上洛、南宕渠、懷漢、新興、安康等十郡。
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[三八] 及獻帝初平六年
趙一清水經注釋三三:全祖望謂初平只四年,無六年,當作元年。
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[三九] 縣四十四
各本作「縣三十三」,今從殿本作「縣四十四」,與統計實數合。
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[四〇] 蜀置
畢校:譙周巴記,建安六年劉璋分巴郡墊江以上爲巴西郡。據此,則巴西郡劉璋時分置。
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[四一] 魚復
各本作「魚腹」,今從宋本作「魚復」。漢志上、續漢志五、華陽國志一、後漢書張堪傳、蜀志先主傳並作「魚復」。
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