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涼州。『禹貢』によると雍州の境界の西にあり、周が衰えると、その地は狄の地となった。秦は美陽に甘泉宮を興したが、そこは元々匈奴が銅像を鎮め天を祭る場所であった。匈奴は既に甘泉を失ったが、休屠王と渾邪王らに涼州の地を占拠させた。二王は後にその地をあげて漢に降り、漢は張掖郡、酒泉郡、敦煌郡、武威郡を置いた。その後また金城郡を置いた。これらを河西五郡という。漢は周の雍州を改めて涼州とした。その地より西方は常に寒涼である。地勢は西北に邪のように出ていて、南山の間にあり、南は西羌と隔たり、西は西域へ通じ、まるで匈奴の右腕を断つようだと言われた。
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後漢の献帝のとき、涼州で反乱が相次ぎ、河西五郡は州を隔てて遠くなったので、(勢力下にある部分を)別けて雍州とした。後漢末になると、古典に定める九州に基づき、関より右側と合わせたうえで雍州とした。魏の時代、またもや分けて涼州とし、刺史には戊己校尉を兼任させて西域を護り、漢の当初のとおり(涼州として)晋に至るまで改めなかった。八郡、四十六県、三萬七百戸を統治した。
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金城郡 漢が置いた。五県、二千戸を統治した。
榆中 允街 金城 白土 浩亹
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西平郡 漢が置いた。四県、四千戸を統治した。
西都 臨羌 長寧 安夷
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武威郡 漢が置いた。七県、五千九百戸を統治した。
姑臧 宣威 揖次 倉松 顯美 驪靬 番和
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張掖郡 漢が置いた。三県、三千七百戸を統治した。
永平 臨澤(漢の昭武県を文帝の諱を避けて改めた[三一]。) 屋蘭(漢の屋蘭の名による。)
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西郡 漢が置いた。五県、一千九百戸を統治した。
日勒 刪丹 仙提 萬歲 蘭池(一説によると蘭絕池という。)
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酒泉郡 漢が置いた。九県、四千四百戸を統治した。
福祿 會水 安彌 騂馬 楽涫 表氏 延壽 玉門 沙頭
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敦煌郡 漢が置いた。十二県、六千三百戸を統治した。
昌蒲 敦煌 龍勒 陽關 效穀 広至 宜禾 冥安[三二] 深泉[三三] 伊吾 新鄉 乾齊
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西海郡 昔、張掖に属していたが、漢の献帝の興平二年(195年)、武威郡太守の張雅が勅令を請けて置いた。一県、二千五百戸を統治した。
居延(東南に湿地が在り、それは『尚書』で言うところの流沙[1]にある。)
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元康五年(295年)、恵帝は敦煌郡の宜禾県、伊吾県、冥安県、深泉県、広至県の五県と酒泉郡の沙頭県を分け、また會稽県[2]、新鄉県を別に立て、全部で八県を晋昌郡とした。永寧年間中(301~302年)、張軌は涼州刺史となり、武威を都とし、上表して請け、秦州と雍州を合わせ、姑臧県の西北に人民を移住させ、武興郡を置いて、武興県、大城県、烏支県、襄武県、晏然県、新鄣県、平狄県、司監県を統治した。また西平郡の境界地域を分けて晋興郡を置き、晋興県、枹罕県、永固県、臨津県、臨鄣県、広昌県、大夏県、遂興県、罕唐県、左南県を統治した。
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このとき(晋は)中原を奪われ、元帝は江左の地に退避せざるを得なかった。張軌はそのまま河西に控えて占拠し、晋の暦を称した。これを前涼という。張寔の時代になり、金城郡の令居県と枝陽県の二県を分けて、また永登県を立て、合わせて三県を広武郡として立てた。張茂は武興郡、金城郡、西平郡、安故郡を分けて定州とした。
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張駿は武威郡、武興郡、西平郡、張掖郡、酒泉郡、建康郡、西海郡、西郡郡、湟河郡、晋興郡、広武郡の合わせて十一郡を分けて涼州とし[三四]、興晋郡、金城郡、武始郡、南安郡、永晋郡、大夏郡、武成郡、漢中郡を分けて河州とし、敦煌郡、晋昌郡、高昌郡、西域都護、戊己校尉、玉門大護軍の三郡三営を沙州とした[三五]。張駿は涼州都督として代理で三州を治めた。張祚はまたもや敦煌郡を商州とした。永興年間(350~352年)中、漢陽県の所属する州郡を置き、張玄靚が改めて祁連郡とした。
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張天錫は、また別に臨松郡を置いた。張天錫は苻氏に降伏し、その地はやがて呂光に占拠された。呂光が姑臧に遷都した後、郭 に予言をさせて、昌松郡を改めて東張掖郡とした。呂隆の時代になると後秦の姚興に降伏し、その地は三分された。武昭王が敦煌で西涼を建て、禿髮烏孤が楽都で南涼を建て、沮渠蒙遜が張掖で北涼を建てた。このように河西五郡は分かれて占拠された。
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[三一] 避文帝諱改也
「文」は、原作では誤って「景」としているが、今、改めて正す。
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[三二] 冥安
「冥」という字は原作では「宜」とある。『畢沅晉書地理志新補正』ではそれを「冥安」とし、『元和郡県志』では県境界の冥水から名付けたとする。提案として、畢沅の説に拠って今改める。以下同じ。
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[三三] 深泉
相異を考えるに、もとの「淵泉」を唐の諱を避けて「深泉」とした。
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[三四] 張駿分武威武興西平張掖酒泉建康西海西郡湟河晉興廣武合十一郡為涼州
原作では、「西海」が欠けていて、「廣武」を「須武」と誤っている。ここで『後魏書』張駿伝に拠って補ぎない改める。
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[三五] 敦煌晉昌高昌西域都護戊己校尉玉門大護軍三郡三營為沙州
原作では、「高昌」が欠けていて、「戊己」を「張茂以」と誤っている。ここで『後魏書』張駿伝に拠って増やし改める。[3]
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訳者注[1]
「流沙」はゴビ砂漠を指す。
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訳者注[2]
酒泉郡の条に「會水」という県が列記されている。「會稽」は「會水」の誤りではなかろうか。
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訳者注[3]
「增改」とあるが、『後魏書』張駿伝を確認しないと校正内容が見えてこない。
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< 原文 > 『晋書』中華書局 1974年11月刊行 ISBN 7101003087 |
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涼州。案禹貢雍州之西界,周衰,其地爲狄。秦興美陽甘泉宮,本匈奴鑄金人祭天之處。匈奴既失甘泉,又使休屠、渾邪王等居涼州之地。二王後以地降漢,漢置張掖、酒泉、敦煌、武威郡。其後又置金城郡,謂之河西五郡。漢改周之雍州爲涼州,蓋以地處西方,常寒涼也。地勢西北邪出,在南山之間,南隔西羌,西通西域,于時號爲斷匈奴右臂。獻帝時,涼州數有亂,河西五郡去州隔遠,於是乃別以爲雍州。末又依古典定九州,乃合關右以爲雍州。魏時復分以爲涼州,刺史領戊己校尉,護西域,如漢故事,至晉不改。統郡八,縣四十六,戶三萬七百。
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金城郡 漢置。統縣五,戶二千。
榆中 允街 金城 白土 浩亹
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西平郡 漢置。統縣四,戶四千。
西都 臨羌 長寧 安夷
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武威郡 漢置。統縣七,戶五千九百。
姑臧 宣威 揖次 倉松 顯美 驪靬 番和
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張掖郡 漢置。統縣三,戶三千七百。
永平 臨澤漢昭武縣,避文帝諱改也[三一]。 屋蘭漢因屋蘭名焉。
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西郡 漢置。統縣五,戶一千九百。
日勒 刪丹 仙提 萬歲 蘭池一云蘭絕池。
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酒泉郡 漢置。統縣九,戶四千四百。
福祿 會水 安彌 騂馬 樂涫 表氏 延壽 玉門 沙頭
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敦煌郡 漢置。統縣十二,戶六千三百。
昌蒲 敦煌 龍勒 陽關 效穀 廣至 宜禾 冥安[三二] 深泉[三三] 伊吾 新鄉 乾齊
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西海郡 故屬張掖,漢獻帝興平二年,武威太守張雅請置。統縣一,戶二千五百。
居延澤在東南,尚書所謂流沙也。
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元康五年,惠帝分敦煌郡之宜禾、伊吾、冥安、深泉、廣至等五縣,分酒泉之沙頭縣,又別立會稽、新鄉,凡八縣爲晉昌郡。永寧中,張軌爲涼州刺史,鎮武威,上表請合秦雍流移人於姑臧西北,置武興郡,統武興、大城、烏支、襄武、晏然、新鄣、平狄、司監等縣。又分西平界置晉興郡,統晉興、枹罕、永固、臨津、臨鄣、廣昌、大夏、遂興、罕唐、左南等縣。
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是時中原淪沒,元帝徙居江左,軌乃控據河西,稱晉正朔,是爲前涼。及張寔,分金城之令居、枝陽二縣,又立永登縣,合三縣立廣武郡。張茂分武興、金城、西平、安故爲定州。張駿分武威、武興、西平、張掖、酒泉、建康、西海、西郡、湟河、晉興、廣武合十一郡爲涼州[三四],興晉、金城、武始、南安、永晉、大夏、武成、漢中爲河州,敦煌、晉昌、高昌、西域都護、戊己校尉、玉門大護軍三郡三營爲沙州[三五]。張駿假涼州都督,攝三州。張祚又以敦煌郡爲商州。永興中,置漢陽縣以守牧地,張玄靚改爲祁連郡。
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張天錫又別置臨松郡。天錫降於苻氏,其地尋爲呂光所據。呂光都於姑臧後,以郭 言讖,改昌松爲東張掖郡。及呂隆降於姚興,其地三分。武昭王爲西涼,建號於敦煌。禿髮烏孤爲南涼,建號於樂都。沮渠蒙遜爲北涼,建號於張掖。而分據河西五郡。
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[三一] 避文帝諱改也
「文」,原誤作「景」,今改正。
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[三二] 冥安
「冥」原作「宜」。畢校:應作「冥安」,元和郡縣志以縣界冥水爲名。按:畢說是,今據改。下同。
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[三三] 深泉
考異:「淵泉」作「深泉」,避唐諱。
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[三四] 張駿分武威武興西平張掖酒泉建康西海西郡湟河晉興廣武合十一郡爲涼州
原缺「西海」,「廣武」誤作「須武」,今據後魏書張駿傳補改。
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[三五] 敦煌晉昌高昌西域都護戊己校尉玉門大護軍三郡三營爲沙州
原缺「高昌」,「戊己」誤作「張茂以」,今據後魏書張駿傳增改。
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