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ライブラリ > 晋書地理志 > 晋書巻十四 志第四 地理上 總敘 1

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晋書 巻十四 志第四 地理上
總敘 司州 兗州 豫州 冀州 幽州 平州 并州 雍州 涼州 秦州 梁州 益州 寧州

昔者元胎無象,太素流形,對越在天,以為元首,則記所謂冬居營窟,夏居橧巢,飲血茹毛,未有麻絲者也。及燧人鑽火,庖犧出震,風宗下武,炎胤昌基,畫野無聞,其歸一揆。黃帝則東海南江,登空躡岱,至於崑峯振轡,崆山訪道,[一]存諸汗竹,不可厚誣。高陽任地依神,帝嚳順天行義。東踰蟠木,西濟流沙,北至幽陵,南撫交阯,日月所經,舟車所至,莫匪王臣,不踰茲域。帝堯時,禹平水土,以為九州。

[一] 崆山訪道 「崆」,宋本、局本等作「風」,殿本作「崆」,今從殿本。黃帝于崆峒山訪道,傳自莊子。

昔者元胎無象,太素流形,對越在天,以為元首,則記所謂冬居營窟,夏居橧巢,飲血茹毛,未有麻絲者也。燧人氏は火を興し、庖犧氏は雷から出て、風性の女希氏は配下の武勇を尊び、炎帝神農氏は庶民の基本的な生活を向上させたが、諸侯は土地を奪い合い、その行く末は乱世であった。黃帝は東海の南に長江を臨み、空を登り泰山を登り、崑崙山脈に至って馬の手綱を引き、崆峒山の道を訪れると[一]、そこには竹が広がっており、その領土内で罪のない人を無理に陥れることはなかった。高陽(後の帝顓頊)は神から統治を任かされ、帝嚳は天の道に従う手本であった。その領土は東は蟠木、西はゴビ砂漠、北は河北、南は交阯に及び、定期的に入朝しない王臣はいなかった。帝堯の時代、禹は治水と潅漑に成功し、領土を九州とした。

[一] 崆山訪道: 「崆」という字について、宋本および局本などでは「風」とあり、殿本では「崆」とある。ここでは殿本に従う。黃帝が崆峒山[1]の道を訪れた、と『莊子』は伝えている。


[1] 崆峒山: 崆峒山は天水の北、平涼の西にあり、涇水の水源地がある。


虞舜登庸,厥功彌劭,表提類而分區宇,判山河而考疆域,冀北創并部之名,燕齊起幽營之號,則書所謂肇十有二州,封十有二山者也。夏功在于唐堯,殷因無所損益。周武克商,自豐徂鎬。至成王時,改作禹貢,徐梁入於青雍,冀野析於幽并。職方掌天下之土,以周厥利;保章辯九州之野,皆有分星。東南曰揚州,正南曰荊州,河南曰豫州,正東曰青州,河東曰兗州,正西曰雍州,東北曰幽州,河內曰冀州,正北曰并州。始皇初并天下,懲戰國,削罷列侯,分天下為三十六郡。三川、河東、南陽、南郡、九江、鄣郡、會稽、潁川、碭郡、泗水、薛郡、東郡、琅邪、齊郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、代郡、鉅鹿、邯鄲、上黨、太原、雲中、九原、雁門、上郡、隴西、北地、漢中、巴郡、蜀郡、黔中、長沙,凡三十五郡,與內史為三十六郡也。

舜が禹を登用すると、禹はその事業をひろく推し進めた。類似する漢字を洗い出して区分したり、山河によって国境を整え、冀州の北に并州を置き、幽州の東西の地から燕州と齊州を立てた。すなわち史書では始めに十二州あって、十二山が封じられていたという。夏の時代の領土は唐堯の時代に創られ、殷では変わらないままであった。周の武王は殷を滅ぼすと、豊から鎬に遷都した。成王の時代には、徐州を廃して青州に組み入れ、また梁州を廃して雍州に組み入れ、冀州の領土から幽州と并州を分けて立て、『禹貢』にある全土領域を改めた。『職方氏』では天下の土地を掌握して周の地利とした。古来九州に分けられた中国全土は、すべて宿星と対応して分けられ、東南に揚州、正南に荊州、河南に豫州、正東に青州、河東に兗州、正西に雍州、東北に幽州、河內に冀州、正北に并州があった。秦の始皇帝は初めて天下を統一し、戦国の世を鎮め、列侯制度をやめ、天下の領土を分けて三十六郡とした(三川郡、河東郡、南陽郡、南郡、九江郡、鄣郡、會稽郡、潁川郡、碭郡、泗水郡、薛郡、東郡、琅邪郡、齊郡、上谷郡、漁陽郡、右北平郡、遼西郡、遼東郡、代郡、鉅鹿郡、邯鄲郡、上黨郡、太原郡、雲中郡、九原郡、雁門郡、上郡、隴西郡、北地郡、漢中郡、巴郡、蜀郡、黔中郡、長沙郡の三十五郡の他、內史を設置しこれを合わせ三十六郡とした)


於是興師踰江,平取百越,又置閩中、南海、桂林、象郡,凡四十郡,郡一守焉。其地則西臨洮而北沙漠,東縈西帶,皆臨大海。漢祖龍興,革秦之弊,分內史為三部,更置郡國二十有三,桂陽、江夏、豫章、河內、魏郡、東海、楚國、平原、梁國、定襄、泰山、汝南、淮陽、千乘、東萊、燕國、清河、信都、常山、中山、渤海、廣漢、涿郡,合二十三也。三內史者,河上、渭南、中地也。地理志曰:高祖增二十六,武帝改河上、渭南、中地以為京兆、馮翊、扶風,是為三輔也。文增厥九,廣平、城陽、淄川、濟南、膠西、膠東、河間、廬江、衡山,武帝改衡山曰六安。景加其四。濟北、濟陰、山陽、北海也。宣改濟北曰東平。

その後挙兵して長江を渡り百越を平定すると、閩中郡、南海郡、桂林郡、象郡を置いて全部で四十郡となり、郡には一人の守を置いた。[2]領土は西に臨洮、北に沙漠、東からは曲がりくねった道が西へと延び、南はすべて大海を臨む。漢の高祖は天命を受け、秦を倒して王朝を興し、內史を分けて三部とし、さらに郡國二十三を置いた(桂陽郡、江夏郡、豫章郡、河內郡、魏郡、東海郡、楚國、平原郡、梁國、定襄郡、泰山郡、汝南郡、淮陽郡、千乘郡、東萊郡、燕國、清河郡、信都郡、常山郡、中山郡、渤海郡、廣漢郡、涿郡の合計二十三。三內史とは、河上、渭南、中地をいう。地理志[3]では「高祖は二十六郡増やし、武帝は河上、渭南、中地を改め京兆、馮翊、扶風とし、これを三輔とした」とある)。文帝は九郡を増やし(廣平郡、城陽郡、淄川郡、濟南郡、膠西郡、膠東郡、河間郡、廬江郡、衡山郡。武帝は衡山郡を改め六安郡とした)、景帝は四郡を加えた(濟北郡、濟陰郡、山陽郡、北海郡。宣帝は濟北郡を改め東平郡とした)

[2] 領土: 「其地」とは、領土全域を指しているのだろう。「臨洮」は地名で後世の隴西郡あたりに位置する。史記によると、「臨洮」は秦の始皇帝のときに築いた長城の西端とあり、また史記には「西起臨洮,東至遼東」といった記述が多く、「臨洮」が中国の西端の意味で使われることがある。ここでは漢土の国境の説明として、まずは「西臨洮」「北沙漠」「東縈西帶」とし、百越の地を指して「皆臨大海」という表現をしているのだろう。
[3] 地理志: 地理志とは漢についての記述中にあるので『漢書』の地理志のことであろう。


武帝開越攘胡,初置十七,南海、蒼梧、鬱林、合浦、交阯、九真、日南、珠崖、儋耳九郡,平西南夷置牂柯、越巂、沈黎、汶山、犍為、益州六郡,西置武都郡,又分立零陵郡,合十七郡。拓土分疆,又增十四。弘農、臨淮、西河、朔方、酒泉、陳留、安定、天水、玄菟、樂浪、廣陵、敦煌、武威、張掖。昭帝少事,又增其一。金城也。

武帝は越を開拓し、胡を撃ち破り、初めて十七郡を置いた(南海郡、蒼梧郡、鬱林郡、合浦郡、交阯郡、九真郡、日南郡、珠崖郡、儋耳郡の九郡。西南夷を平定して牂柯郡、越巂郡、沈黎郡、汶山郡、犍為郡、益州郡の六郡を置き、西に武都郡を置き、分けて零陵郡を立て、合せて十七郡)。また土地を開拓し境界を分けて十四郡を増やした(弘農郡、臨淮郡、西河郡、朔方郡、酒泉郡、陳留郡、安定郡、天水郡、玄菟郡、樂浪郡、廣陵郡、敦煌郡、武威郡、張掖郡)。昭帝の事業は少なく、一郡のみを増やした(金城郡)。


至平帝元始二年,凡新置郡國七十有一,與秦四十,合一百一十有一。改雍曰涼,改梁曰益,又置徐州,復夏舊號,南置交阯,北有朔方,凡為十三部。涼、益、荊、揚、青、豫、兗、徐、幽、并、冀十一州,交阯、朔方二刺史,合十三部。光武投戈之歲,在彫秏之辰,郡國蕭條,并省者八。城陽、淄川、高密、膠東、六安、真定、泗水、廣陽。建武十一年,省州牧,復為刺史,員十三人,各掌一州。

平帝の元始二年(西暦2年)に至っては、漢は郡国七十一[4]を新しく置き、秦が興した四十郡と合せて百十一郡となった。漢は雍州を改め涼州とし、梁州を改め益州とし、徐州を置き、また夏王朝以来の州があり、南に交阯郡を置き、北に朔方郡があり、全部で十三部となった(涼州、益州、荊州、揚州、青州、豫州、兗州、徐州、幽州、并州、冀州の十一州と、交阯郡、朔方郡の二人の刺史、合せて十三部)。光武帝の戦が終わる頃、郡国の数がものさびしくも減った時期があり、このとき併せて八郡を省いたという(城陽郡、淄川郡、高密郡、膠東郡、六安郡、真定郡、泗水郡、廣陽郡)。建武十一年(西暦35年)、州牧を廃止してまた刺史とし、十三人が各々一州を掌握した。

[4] 郡国七十一: 七十一の郡国を置いたとあるが、この書では七十を数えているため郡国の数がここで一つずれている。漢の高祖が二十三の郡国を置き、內史を三部にしたことで二十五を数え、文帝の九、景帝の四、武帝の十七、十四、章帝の一で合計七十となる。但し、注に引く地理志では高祖が二十六郡増やしたとあるが、これに従えば七十一となり、数は一致する。


明帝置一,永昌也。章帝置二,任城、吳郡。和順改作,其名有九。和置濟北、廣陽,順改淮陽為陳,改楚為彭城,濟東為東平,臨淮為下邳,千乘為六安,信都為安平,天水為漢陽。省朔方刺史,合之於司隸,凡十三部,其與西漢不同者,司隸校尉部郡治河南,朔方隸於并部。而郡國百有八焉。省前漢八,分置五,改舊名七,因舊九十六,少前漢三也。

明帝は一郡を置き(永昌郡)、章帝は二郡を置き(任城郡、吳郡)、和帝と順帝は改めたり置いたりしたが、それら郡名は九つに登る(和帝は濟北郡、廣陽郡を置き、順帝は淮陽郡を改め陳郡とし、楚郡を改め彭城郡とし、濟東郡を東平郡とし、臨淮郡を下邳郡とし、千乘郡を六安郡とし、信都郡を安平郡とし、天水郡を漢陽郡とした)。 朔方郡の刺史を廃止し、司隸を合わせ、全部で十三部となり(前漢の十三部と同じではなく、河南県を郡治とする司隸校尉部があり、朔方郡は并州に属した)、そして郡国は百八となった[5]前漢から八郡を省き、分けて五郡を置き、旧名を改めた七郡と旧名のままの九十六郡で、結局前漢より三郡少なくなった)

[5] 八郡を省き、五郡を置いたので、百十一郡あった前漢より三郡少なくなった。
分けて五郡を置き、旧名を改めること七郡、旧名の九十六郡、合わせて百八郡となる。


桓靈頗增於前,復置六郡。桓,高陽、高涼、博陵;靈,南安、鄱陽、廬陵。魏武定霸,三方鼎立,生靈版蕩,關洛荒蕪,所置者十二,新興、樂平、西平、新平、略陽、陰平、帶方、譙、樂陵、章武、南鄉、襄陽。所省者七,上郡、朔方、五原、雲中、定襄、漁陽、廬江。而文帝置七,朝歌、陽平、弋陽、魏興、新城、義陽[二]、安豐。明及少帝增二,明,上庸也;少,平陽也。得漢郡者五十四焉。

[二] 義陽 據下「武帝增置」之文及「義陽郡」下之文,義陽郡又置于晉武帝太康時。

桓帝と靈帝はさらに増やし、六郡を置いた(桓帝は、高陽郡、高涼郡、博陵郡。靈帝は、南安郡、鄱陽郡、廬陵郡)。魏の武帝は、覇を唱え三方鼎立の一足となったが、人民の生活は安定せず、関中洛陽が荒廃する中で、十二郡を置き(新興郡、樂平郡、西平郡、新平郡、略陽郡、陰平郡、帶方郡、譙郡、樂陵郡、章武郡、南鄉郡、襄陽郡)、七郡を省いた(上郡、朔方郡、五原郡、雲中郡、定襄郡、漁陽郡、廬江郡)。文帝は七郡を置き(朝歌郡、陽平郡、弋陽郡、魏興郡、新城郡、義陽郡[二]、安豊郡)、明帝と少帝は二郡を増やし(明帝は、上庸郡。少帝は、平陽郡)、結局魏は漢土の五十四郡を獲得したという。

[二] 義陽: 「武帝增置」の文および「義陽郡」以下の文によると、義陽郡は晋の武帝の太康年間にも置かれた。


蜀先主於漢建安之間初置郡九,巴東、巴西、梓潼、江陽、汶山、漢嘉、朱提、宕渠、涪陵。後主增二,雲南、興古。得漢郡者十有一焉。吳主大皇帝初置郡五,臨賀、武昌、珠崖、新安、廬陵南部。少帝、景帝各四,少,臨川、臨海、衡陽、湘東。景,天門、建安、建平、合浦北部。歸命侯亦置十有二郡,始安、始興、邵陵、安成、新昌、武平、九德、吳興、東陽、桂林、滎陽、宜都。得漢郡者十有八焉。

蜀の先主は、漢の建安年間、初めて九郡を置き(巴東郡、巴西郡、梓潼郡、江陽郡、汶山郡、漢嘉郡、朱提郡、宕渠郡、涪陵郡)、後主は二郡を増やし(雲南郡、興古郡)、結局蜀は漢土の十一郡を獲得したという。吳主大皇帝は初めて五郡を置き(臨賀郡、武昌郡、珠崖郡、新安郡、廬陵郡の南部)、少帝と景帝は各々四郡(少帝は、臨川郡、臨海郡、衡陽郡、湘東郡。景帝は、天門郡、建安郡、建平郡、合浦郡の北部)、歸命侯は十二郡を置き(始安郡、始興郡、邵陵郡、安成郡、新昌郡、武平郡、九德郡、吳興郡、東陽郡、桂林郡、滎陽郡、宜都郡)、結局吳は漢土の十八郡を獲得したという。


晉武帝太康元年,既平孫氏,凡增置郡國二十有三,滎陽、上洛、頓丘、臨淮、東莞、襄城、汝陰、長廣、廣甯、昌黎、新野、隨郡、陰平、義陽、毗陵、宣城、南康、晉安、寧浦、始平、略陽、樂平、南平。省司隸置司州,別立梁、秦、寧、平四州,仍吳之廣州,凡十九州,司、冀、兗、豫、荊、徐、揚、青、幽、平、并、雍、涼、秦、梁、益、寧、交、廣州。郡國一百七十三,仍吳所置二十五,仍蜀新置十一,仍魏所置二十一,仍漢舊九十三,置二十三。以為冠帶之國,盡有殷周之土。若乃敦龐於天地之始,昭晰於犧農之世,用長黎元,未爭疆埸。而玉環楛矢,夷裘風駕,南翬表貺,東風入律,光乎上德,奚遠弗臻。然則星象麗天,山河紀地,端掖裁其弘敞,崤函判其都邑,仰觀俯察,萬物攸歸。是以洛沚咸陽,宛然秦漢,晉濱河西,同知堯禹,于茲新邑,宅是鎬京,五尺童子皆能口誦者,史官弗之書也。

晉の武帝の太康元年、既に孫氏を平定し、全部で郡国二十三を置き(滎陽郡、上洛郡、頓丘郡、臨淮郡、東莞郡、襄城郡、汝陰郡、長廣郡、廣甯郡、昌黎郡、新野郡、隨郡、陰平郡、義陽郡、毗陵郡、宣城郡、南康郡、晉安郡、寧浦郡、始平郡、略陽郡、楽平郡、南平郡)、司隸を省いて司州を置き、別に梁州、秦州、寧州、平州の四州を立て、もと吳の廣州を合わせ、全部で十九州となった(司州、冀州、兗州、豫州、荊州、徐州、揚州、青州、幽州、平州、并州、雍州、涼州、秦州、梁州、益州、寧州、交州、廣州)。百七十三の郡国(吳が置いた二十五、蜀が新しく置いた十一、魏が置いた二十一、後漢の旧郡九十三、晋が置いた二十三)を高官の封国とし、殷周の領土は全てなくなった。若乃敦龐於天地之始,昭晰於犧農之世,用長黎元,未爭疆埸。而玉環楛矢,夷裘風駕,南翬表貺,東風入律,光乎上德,奚遠弗臻。然則星象麗天,山河紀地,端掖裁其弘敞,崤函判其都邑,仰觀俯察,萬物攸歸。是以洛沚咸陽,宛然秦漢,晉濱河西,同知堯禹,于茲新邑,宅是鎬京,五尺童子皆能口誦者,史官弗之書也。


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