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袁術公路  ] の詳細 検索結果へ戻る
人物ID 人物名称 特記事項
0097
袁術   公路
  







えん
じゅつ
こうろ
公路
   
本籍地 生年月日 没年月日 性別

じょなんぐん
汝南郡

じょようけん
汝陽県

?

199年

一族
袁京 (曽祖父)
袁湯 (祖父)
袁逢 周陽(父親)
袁平 (伯父)
袁成 文開(伯父)
袁隗 字陽(叔父)
袁基 (兄)
袁紹 本初(兄?)
袁紹 本初(いとこ?)
袁燿 (子)




名門袁家 中原に覇を唱える
袁術は洛陽炎上後の中原騒乱期において、袁紹と勢力を二分した。名門袁家による二大勢力は自己の力を過信し、新興勢力の台頭とともに次第に淘汰されていった。

名門出身の袁術
袁術は侠気があることで知られ、中央と地方の官職を歴任し、折衝校尉・虎賁中郎将となった。

宦官討伐
189年8月、何進の宦官討伐計画に参加し、虎賁の中から温厚な者二百人を選抜して禁裏で待機させていた。何進が十常侍に殺されると、袁術は虎賁を率いて南宮の嘉徳殿と青瑣門に火を放ち、首謀者段珪らをあぶり出そうとしたが逃げられてしまった。

董卓の暴虐
189年9月、董卓が皇帝を廃そうとしたとき、袁術は後将軍に任命されたが、董卓を恐れて南陽に逃亡した。これより先に曹操は董卓の元から出奔していたが、このとき袁術は曹操が死んだと言いふらし、曹操の側仕えの者たちを惑わせた。

南陽私物化
逃亡先の南陽では、非道な太守張咨の悪政に人々は苦しめられていた。ちょうど長沙郡太守の孫堅が張咨を討伐したため、袁術は南陽郡を支配することができた。南陽郡の戸数は数百万もあったが、袁術が私服を肥やしたため、人々はまた苦しんだ。袁紹を盟主とする反董卓連合では、南陽に駐屯したまま兵を進めようとしなかった。やがて董卓が長安に引き上げたため、反董卓連合軍は自然に解散する運びとなり、群雄たちは各地に割拠する形となった。

二袁の勢力争い
袁術は皇位継承を巡って袁紹と仲たがいをし、荊州の領有問題で劉表ともうまくいかなかったため、北方の公孫と手を結んだ。袁術は袁紹派の領地・陳留に進軍した。しかし袁紹と手を結んだ曹操に敗れ、大敗を喫した。袁術は残兵をまとめて九江へ逃亡し、揚州刺史の陳温を殺害して州を乗っ取り、張勲・橋らを大将軍に任命した。長安を占拠した李は、袁術と手を組もうとした。李は袁術を左将軍に任命し、陽侯に封じ、軍令違反の者を自由に処罰する権限を示す「節(はた)」を与えることとして、馬日を袁術のもとに派遣した。袁術は馬日の持っている節を奪い取り、返さなかった。

皇帝への道
袁術はともに三公を生んだ氏族の子弟である陳珪に傘下に加わるよう求めたが、陳珪はこれを断った。195年冬、献帝は李・郭らに追撃されて曹陽で敗北した。袁術は配下の者を集め、自ら帝位につくことについて意見を求めた。誰も思い切って答えなかったが、主簿の閻象が進み出て、まだ漢の威光は衰えていないと諌めた。袁術は黙ったまま不機嫌になってしまった。

皇帝僭称 揚州私物化
197年、天の意思を示す瑞兆が下ったという河内の張烱の説を採用し、九江で皇帝を僭称した。国号を仲と称し、九江郡太守を淮南尹として任命し、公卿を置き、南郊北郊で祭祀を行った。袁術は後宮に数百人の女官を入れ、上質の米肉はありあまるほど蓄え、欲望の限りを尽くして贅沢に明け暮れた。一方、士卒は飢えこごえ、江淮の地域には何もなくなってしまった。

自滅への階段
197年9月、袁術は陳国に進軍したが、曹操が攻めてきたと聞いて、軍を捨て淮水を渡って逃亡した。陳に残された武将らは皆、曹操に斬り殺された。袁術は配下の雷薄・陳蘭の元に逃げたが受け入れてもらえず、心配と恐怖におそわれた。この敗戦により、袁術は次第に行き詰まっていった。

天から地へ
199年、袁術は袁紹に皇帝の称号を送り、青州の袁譚のもとへ身を寄せようとした。袁譚は迎えの使者を出してくれたが、劉備と朱霊に遮られた。たまたまその途中で病死した。

※ 袁術の称した国号「仲」は『後漢書』に記載されている。



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登場箇所
1-18,1-20,1-22,1-27~28,1-31~32,1-34~36,1-38,1-41,1-50,1-67~68,1-72~73,1-82~83,1-89,1-92,1-240,1-373,1-420,1-449,1-498,1-506,1-508,1-509,2-11~12,2-15~24,2-26,2-28~30,2-63~65,2-68,2-142,2-152,2-167,2-238,2-245~246,2-269~270,2-272,2-297,2-306~307,2-401,2-415~417,2-470,3-17,3-28,3-39~40,3-80,3-97,3-196,3-200,3-241,3-467,3-486,4-60,5-29~33,5-35,5-102,5-217,5-229,6-18~19,6-21,6-23,6-26,6-29~30,6-32~37,6-39~40,6-47~51,6-260~261,6-263,6-273,6-288,6-292,6-298,6-310,6-319~320,6-322,6-324~325,7-50,7-70,7-119,7-158~159,7-175,7-178,7-227,7-244~246,7-264.

本籍地
記述なし。本籍は一族にならった。

生没年
生年 記述なし
没年 199年 (1-504.)



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